黒い頭巾をかぶり、静かに舞い踊る姿を見て、初めて見た人は「まるで忍者だ」。
そう思うかもしれません。
でも、その発想はあながちハズレではありません。
この津和野踊りは、敵城を落とすために、初代藩主の父である亀井茲矩(これのり)が衣装、所作、音曲を考案した踊りだと伝えられています。
知略で戦に勝った記念の踊りとして、お盆に踊られるようになったこの踊りは、1617年に亀井政矩が津和野藩主になってから今日まで、ずっと津和野の地で踊られ続けています。
さて、亀井茲矩の知略とは? こんな話が伝えられています。
時は戦国時代。織田信長が東海から近畿を掌握し、さらに勢力を拡大して天下人に昇りつめようとしていた、そんな時です。
中国地方は毛利元就が磐石の体制で抑えていましたが、信長は毛利に滅ぼされた尼子氏再興に兵を挙げた山中幸盛(鹿之助)を援助し、一方で家臣の羽柴秀吉を中国地方攻略に派遣していました。
当時の亀井家当主、新十郎茲矩(これのり)は、幸盛とともに戦っていました。
山中幸盛は志半ばに倒れましたが、茲矩は秀吉の元で戦い続け、因幡国鹿野城(鳥取市鹿野町)となっていました。
亀井玆矩(これのり)は羽柴秀吉に、鹿野城そばにある金剛(こんこの)城を攻略するよう命じられました。
金剛城は難攻不落で、正攻法では味方の兵を損するばかりでした。また鳥取城と連携して、鳥取攻略を目指す羽柴軍を苦しめていました。
あるとき玆矩は金剛城の城主・兵頭源六は音楽や踊りが好きだと知り、ひとつの戦略を思いつきます。
玆矩は郷土芸能に新しい舞踊(つわの踊りの原型)を取り入れ、笛や太鼓を加えて、城下の村々に盛んに踊られました。人々は喜び、その踊りはたちまちのうちに大流行したのです。
そして天正九年(1581)七月十四日、盂蘭盆会(旧盆)の日。
城下の人々は普段より美しく装いをこらした姿で舞いを披露しました。
その一団の中に、玆矩は鎧を来た一隊を変装させて加えていました。
(これが津和野踊りの衣装の源。黒ずきんは、甲冑を隠すためのものだったのです。)
一団は踊りながら、しだいに金剛城下に溢れだしました。
敵方、金剛城中の男女は、この一団を見ようと歓声をあげて集い、ついには城主の兵頭や家臣たちも見物に城を出ました。
踊りも終わりに近づく頃、にわかに城に火が起りました。
兵頭が気づき城を仰いだときには、すでに亀井勢の家紋の入った旗がひるがえり、踊り子の装いはとられて戦士となり、城はすっかり奪われていました。
玆矩の企てた奇策は、見事成功をおさめたのです。
その後、戦勝の記念としてお盆に踊られたこの踊りは、亀井氏が津和野藩に移封されたのちも伝えられ、そのまま津和野踊りとして今日も踊られています。