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2017年夏、400年目の津和野踊りを400人で踊ろう

 

今年(2017年)は津和野藩を治めていた亀井氏が入城してから400年となります。
亀井氏が後世に残した津和野の文化は多くありますが、その中でも県の無形文化財に指定されている津和野踊りは念仏踊りの一種で室町時代からの古い形を残すものです。
他地域の盆踊りとしては他に類を見ない頭巾・白装束の衣装が最大の特徴で、囃子にのりゆったりと踊るその姿は古雅で趣があります。
今年はその津和野踊り400周年を記念し、400人踊りを目標に実施します。
誰でもお気軽に参加できますので、みなさん一緒に400人の輪を作りましょう!!
また、当日お越し頂いたお客様のうち、先着400名様に特別記念品(津和野踊り黒頭巾・はちまき・うちわ)を授与いたします。
※受付開始は当日15時から津和野体育館前にて開始します。

殿町盆踊り大会

2017年8月15日

 

400年目の殿町盆踊り大会まであと

【当日のスケジュール】
15:00〜              参加者受付 ※先着400名様に記念品授与
18:00〜              屋台村オープン
18:45〜19:30   神楽
19:50〜              灯籠流し
20:30〜20:35   オープニングセレモニー
20:35〜21:20   津和野踊り(前半)
21:20〜21:35   つわの太鼓披露
21:35〜22:20   津和野踊り(後半)
22:30            屋台村営業終了
※雨天時は津和野町民体育館にて開催します(屋台村は中止)

津和野踊りとは

黒い頭巾をかぶり、静かに舞い踊る姿を見て、初めて見た人は「まるで忍者だ」。
そう思うかもしれません。
でも、その発想はあながちハズレではありません。
この津和野踊りは、敵城を落とすために、初代藩主の父である亀井茲矩(これのり)が衣装、所作、音曲を考案した踊りだと伝えられています。
知略で戦に勝った記念の踊りとして、お盆に踊られるようになったこの踊りは、1617年に亀井政矩が津和野藩主になってから今日まで、ずっと津和野の地で踊られ続けています。

さて、亀井茲矩の知略とは? こんな話が伝えられています。

時は戦国時代。織田信長が東海から近畿を掌握し、さらに勢力を拡大して天下人に昇りつめようとしていた、そんな時です。

中国地方は毛利元就が磐石の体制で抑えていましたが、信長は毛利に滅ぼされた尼子氏再興に兵を挙げた山中幸盛(鹿之助)を援助し、一方で家臣の羽柴秀吉を中国地方攻略に派遣していました。

当時の亀井家当主、新十郎茲矩(これのり)は、幸盛とともに戦っていました。
山中幸盛は志半ばに倒れましたが、茲矩は秀吉の元で戦い続け、因幡国鹿野城(鳥取市鹿野町)となっていました。

亀井玆矩(これのり)は羽柴秀吉に、鹿野城そばにある金剛(こんこの)城を攻略するよう命じられました。

金剛城は難攻不落で、正攻法では味方の兵を損するばかりでした。また鳥取城と連携して、鳥取攻略を目指す羽柴軍を苦しめていました。

あるとき玆矩は金剛城の城主・兵頭源六は音楽や踊りが好きだと知り、ひとつの戦略を思いつきます。

玆矩は郷土芸能に新しい舞踊(つわの踊りの原型)を取り入れ、笛や太鼓を加えて、城下の村々に盛んに踊られました。人々は喜び、その踊りはたちまちのうちに大流行したのです。

そして天正九年(1581)七月十四日、盂蘭盆会(旧盆)の日。

城下の人々は普段より美しく装いをこらした姿で舞いを披露しました。

その一団の中に、玆矩は鎧を来た一隊を変装させて加えていました。
(これが津和野踊りの衣装の源。黒ずきんは、甲冑を隠すためのものだったのです。)

一団は踊りながら、しだいに金剛城下に溢れだしました。

敵方、金剛城中の男女は、この一団を見ようと歓声をあげて集い、ついには城主の兵頭や家臣たちも見物に城を出ました。

踊りも終わりに近づく頃、にわかに城に火が起りました。

兵頭が気づき城を仰いだときには、すでに亀井勢の家紋の入った旗がひるがえり、踊り子の装いはとられて戦士となり、城はすっかり奪われていました。

玆矩の企てた奇策は、見事成功をおさめたのです。

その後、戦勝の記念としてお盆に踊られたこの踊りは、亀井氏が津和野藩に移封されたのちも伝えられ、そのまま津和野踊りとして今日も踊られています。

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